BLOG|#12 花をちぎって、次の季節で逢おう。

ボカロ黎明期にたまたま出会った「フェネストラ」という曲、久しぶりにニコ動を開いて見るとマイリスト登録した日が残っていた。
あまりにも一方的だけれど、これがCapsLackの音楽との出会いだった。



ちなみにこの曲は、夕立に笑うの初ライブの登場SEでもある。ちなみに。

その後、Twitterを介して知り合い、住んでるところが近いなんてことがわかってラーメンを食べに行ったりなんやかんやあって、付き合いだけならもう10年以上になる。
彼には沢山アーティストとしての名前があるけれど、知り合って以来呼んでいる「鬼木」とここでは呼称する。

先日久々に飲みに行った鬼木から、ひと足先に新しいアルバム「Dackshund Crime」の数曲を聴かせてもらった。
めでたくリリースした新しいアルバムに、勝手ながらライナーノーツを書く。

これは僕の一方的な解釈に過ぎないし、書きたいから書こうと思う。
ダックスフンドの罪とは一体何なのか。



マフィアなんですか

ドリームポップだ!

鬼木の曲は独特なチップチューンやシンセが印象的ではあるけれど、その陰で、あるいは音像の中央で、歪んだシングルコイルのギターが常に鳴っている。
ある種の「癖」と言っていいそれは、彼がこれまで辿ってきた音楽、あるいは生きてきた変遷によるものだろうと思う。

シンプルな、いや、言葉を選ばずに言えば「お前ちょっとはベロシティいじれ」と思われそうな無骨なビートなのに、どこかロックバンドの臭いが漂うのは、きっとこのギターの影響が大きい。
鬼木の作るメロディは(自分の曲に比べると)音の昇降が激しくないからこそ、このシンプルなビートがよく合う。頭の中の井之頭五郎が「こういうのでいいんだよ こういうので」と語りかけている。

そんな音の中で、気だるげな三月さんの声がとにかく映える。一体どこで拾ってきたんだこんな良い声の人。ずるいぞ。

フレーズやリズムは激しくなっていないのに、ラスサビに向かって徐々に切迫感が押し寄せる。 「私どこまでいけるかわかんないよ!?」というフレーズに心臓がギュッとなる。ぐぐぐ、と胸に来る。

おい、アウトロに入ったら次の曲に飛ばす君、絶対に飛ばすなよ。


うわ蜂

「アルバム出すんだよ」と言って最初に聴かせてくれたのが「うわ蜂」だったと記憶している。
歌詞もないので「うわ…はち…?なんだうわはちって…UWAHACHI?」と思いながら聴いた。

歌詞を眺めながら聴いた今ならこう言える。
「うわ蜂ってなんだ?」


さて、曲は、お聞きの通りだ。やくしまるえつこがこっちを見ている。
ひょっこりとかではない。やくしまるえつこの仮面を被った鬼木がそこにいる。

鬼木は散文のような歌詞を書く。意味があるようで、意味のないような、本人にしかわからない、ただニュアンスは熱を以て伝わるような。
曲を通して語られる「あなた」は誰だろう。過去の思い出か、或いは自身の抑圧した自分の人格か、もしくは夢の産物か。

「幻影はきっと永遠、光に身を割かれても、あなたがここに居てほしい」

サビの2回し目に核心を込める。これは僕の持論だけれど、あながち間違ってないとは思ってる。

前提として僕はラブソングしか書けないので、
もち料理ばっかり作る知覚過敏のふわっとした掴みどころのない女の子を思い浮かべて聴いていた。
蜃気楼のような「あなた」はきっともうここに居ないのに、どこまでも憑いてくるんだろう。
もう恋とも愛とも呼べないような執着を、いつまでも捨てられずに持っている。


OTOMODACHI HEAVEN

鬼木の作るシューゲイザー然とした曲は、心の奥がザワザワする。 勿論いい意味でだけれど、あのピッチの独特な浮遊感が余計にそうさせるのかもしれない。

特に二番以降のユニゾン部分は、どちらが主旋律というわけでもなく、かといってピッタリとタイミングを合わせるわけでもない。
まるで友達同士が指揮もリズムもない空間で、ただ思うがままに歌ったようなメロディが重なり合っている。
曲の漂わせる匂いは「夏」。鳴り続ける音はどこか「喧騒」を思わせる。自分が書いた「夏の花束」という曲がある。どこかそれと通底する空気を感じてしまう。
あちらはまぁ、めちゃくちゃに、全編通して「あなたが好きです」と叫んでいるような曲だけれど。

赤い糸なんて大層な代物には呼べない、けれど確実にそこに存在する、自分では隠しているつもりになっている想い。
それをこの曲は「この糸は透明です」と表現しているのだと解釈している。

だからこそ「僕」は、その大切な想いの糸が切れてしまうくらいなら、切れる前に自分からさよならを告げたいのだ。
かたや「君」は、そんな「僕」の葛藤などお構いなしに、ただ飄々と前を行く。
関係が(良くも悪くも)変わってしまうことへの恐れを隠しきれない「僕」に対して、「君」のその掴みどころのなさは、どこか「うわ蜂」のヒロインの面影を感じる。

「ずっと友達で居られたらいいね」なんて、本当は微塵も思っていないくせに。


幻幽暗翳殺

イントロは短ければ短いほどいいなんて言われる時代に、たっぷり47秒の演奏が響く。
前述した曲に比べて、ボーカルが随分前に在る。

これは勝手な解釈だけれど、このアルバムは鬼木の本心に近いほど、言うなれば赤裸々に書いている歌詞ほど、浮遊感のあるエフェクトが強くなる。という気がする。

歌詞は、前述した三曲に比べるとかなりストレートで生々しいものが並ぶ。
「抉られたような痛み」「殺意が麻痺して」「悪意が混ざって」
そんな直線的で刺すような言葉の数々から受けるのは、剥き出しの感情というよりも、むしろ必死に仮面を被って強がっているような、痛々しいまでの防御姿勢だ。
素直になれない不器用さが、そのまま言葉の鋭さになって表れているように感じる。

実際、生々しい言葉が吐き出されるバースに対して、サビでは一転して詩的で叙情的な四節が並ぶ。
この構造的なコントラストとギャップが、曲調と相まって、より一層際立たせている。

恐らくは、もういっそ忘れたいのだ。
出来得る限りの不器用な憎を以てして、かすかにこびりついた愛をこそぎ落したいのだ。
最期に笑ったあなたを、いっそ呪ってしまえばいい。


リコール

「あぁ、そうか、これは全部で一つなのか」
忘れていた。なんてことだ。自分だってやってきたじゃないか。
アルバムとしてリリースする意味を、意識せずに聴いてしまっていた。

これは呪いだ。ディストリビューターの功罪と言っていい。
手軽さや、広く、様々な音楽に触れられるようになった一方で、アルバムとしてリリースすることの意味や意義が薄れていく。
それは曲の並びであったり、曲の繋ぎ方であったり、そういった矜持みたいなものがどんどん削がれていってしまうのかもしれない。

だからこそこのアルバムに三月さんの声が入ることには、表現の幅が拡がること以上の意味がある。

これは「OTOMODACHI HEAVEN」で表現した情景を、タイトルの通り思い出している。
三月さんが一人で歌うことで、思い返した「君」が再生されているような感覚に引っ張られる。

「幻幽暗翳殺」がロックサウンドかつ声のエフェクトが少なめなアレンジに対して、こちらはシンセ中心のデジタルポップで、綺麗な対比だ。
「マフィアなんですか」「うわ蜂」とは違うはっきりとした発声が、「人」ではなく「記憶」であることを強調しているようにも受け取れる。

何かにつけて、記憶は美化される。それでも後悔は消えない。
拭えないものがあったっていい。あなたがたとえ振り返らないとしても。


BGM

過去、スーパーカーとCOLTEMONIKHAに撃ち抜かれた自分に、この曲が刺さらない理由などあるはずもない。
この場を借りて謝罪したい。ごめん鬼木。間違いなくお前の曲なのに、三月さんの声が合い過ぎてる。好きです。

ライナーノーツを書くにあたって、何度も何度もこのアルバムをリピートした。
この曲こそが、このアルバムのBGMとして機能する。メインテーマでありエンディングテーマとして存在する。
一連の曲で表現されたものを、作品として消化することの宣言でもある。

一度終わった、終わろうとした世界のエンドロールで漏れ出たわずかな灯りを辿った結果がこれなのだ。
生きていてよかった。音楽があってよかった。

「爆弾」が何を指しているかなんで、言葉にする必要もない。
「この世界は素敵ね」という歌詞を残せたことを、どうか誇ってほしい。

全身全霊で作った爆弾が、あなたの元でどうか爆ぜますように。


さいごに

いかがだっただろうか。
勝手な解釈をつらつらと書いてきた。殊勝にも最後まで読んでくれたなら、是非アルバムを聴いてみてほしい。

9月のブログを書き損ねたことは、これで消化してしまおう。


めちゃくちゃいい曲を作る友達「CapsLack」


とんでもなく良い声で歌う人「三月」(敬称略)(友達になってください)






僕もそろそろ、爆弾を作り始めるとする。
花をちぎって、次の季節で逢おう。

それでは、また。

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